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コロナ禍を振り返る

不可逆的に正気を失った一部の反ワクチン派を除いては、新型コロナウイルスに対する興味関心はほとんど跡形もなく消え失せたように思われる。


とはいえ、私という人間は物好きであるからして、ここらで一度、自室の片隅で鼻をほじりながら、一時期世界を大混乱に陥れた一方で、ある意味滑稽でもあったあのコロナ禍というものを、しみじみと回顧してみようと思い立ったのである。

2019年の暮れも押し詰まったころ、中国の武漢で奇妙な肺炎がぽつぽつと人々を襲いはじめた、などというニュースを、私は完全に他人事としてテレビで見ていた。

年が明ければ、その謎の疫病は悠々と海を越え、1月の冷たい風と共に、我が日本列島にもふらりと居座り始めたのだった。

ほどなくして、あらゆる場所でマスクを装着せよとのお達しが下り、私はというとどこを探してもマスクなど手に入らず、仕方なく貴重な不織布を煮沸して使い回すという滑稽千万な行為に手を染めた。

マスクといえば、後から政府が誇らしげに送りつけてきた布マスク二枚、世にいうアベノマスクはというと、我が家では未開封のまま行方不明となっている。

そんな折、三月の声を聞くころには、にわかに「緊急事態宣言」なる物々しい言葉が世を飛び交い始め、私の勤め先でもついに在宅勤務が導入されたのである。

折よく(と言っては語弊があろうが)、その少し前に職場の組織が改編され、私の頭上には新たにEさんがマネージャーとして君臨した。

このEさんがまた、なかなかに稀有な上司で、私に業務らしい業務を振ってくることもなく、口やかましい説教もしてこない。まことに快適であり、歴代マネージャーランキングにおいて暫定首位に輝くのは言うまでもない。

四月七日、ついに緊急事態宣言が発令されるや、Eさんは大仰にこう告げた。

「やることがないと思うので、読書でもしててください」

かくして私は、職務中と称して村上春樹の長編小説をむさぼり読み、漫画『AKIRA』を夜通し読み耽り、ついでに大友克洋のアニメを片っ端から視聴するという、サラリーマンの鑑ともいえる勤勉さを発揮したのであった。

勢い余って、学び直しとして大学受験用の参考書などという青臭い代物まで買い込み、英単語帳『ターゲット1900』を片手に英単語暗記に勤しみつつ、数学は青チャートを高校時代以上に解き散らかす始末。

この年齢にして再受験の野望を胸に忍ばせる自分を、私は時折鏡に映しては「やめておけ」と呟いたものだ。

五月が来ると、緊急事態宣言は段階的に解除され、人々は街へ繰り出し、私はというと、あれほど詰め込んだ英単語のほとんどを、あっさりと脳のどこかに置き忘れた。

しかし、そのころの私は、世界が大きく姿を変えていく様子に、どこか不謹慎ながら妙に胸が高鳴っていたのである。

人々が右往左往し、常識という御札がひらひらと剥がれ落ちていくのを眺めながら、私は部屋の隅でSNSを眺めつつ、奇妙な悦びに頬をゆるめていた。

正直に言えば、あの自粛ムードはもっと続いてほしかったのだ。

仕事という看板を背負いながら、誰にも咎められずに村上春樹を読破し、参考書を積み上げ、昼間から大友克洋に浸るという贅沢は、あの混沌の中でしか味わえぬ甘美な背徳だった。


「もう少しこの世界が非常事態であってくれれば…」


そんなことを思う自分を叱る者はどこにもいなかったし、いま思えば、それもまた一興だったのである。